こんにちは!アンロックです。
今回は『〈しょうがい〉と〈セクシュアリティ〉の相談と支援』を読んだ感想について
まとめたので紹介していきます。
そもそも何の本?
この本は「知的障害や自閉症を抱える青少年の性教育に関する本」です。
青少年らが起こす性トラブル事例をもとに
筆者が当事者である青少年の最善利益を考えた上で悩みに答えていく、という本です。
パート1とパート2に分類されていて
パート1では、筆者が相談を受けて支援した内容が、実際に起こったケースをもとに紹介されています。
パート2では、実際に自分が相談支援をする際に重要なやり方・考え方が紹介されています。
率直な感想
カジュアルな表示に反して内容は重め
カジュアルな表紙に反して内容はかなり重めでした。
知的障害の青少年が女性の下着を盗むのを止められなかったり
幼い子どもに性的加害行為を加えてしまったり
チャットツールで性器の画像を送信してしまったりと
トラブルの内容がかなり深刻なものでした。
それによって引き起こされる周囲の苦悩も描かれていました。
この本で悩みを寄せているのは、知的障害などを抱える当事者ではなく、
その当事者の周囲の方です。
当事者の親やその介助者など関係者が著者に
相談のメールを送っているという方式を取っているのですが、
そのメールの文面からひしひしと苦悩が滲みでているのが感じられました。
自分の息子・娘が性的な被害を受けるかもしれない、
自分・子ども本人が恥ずかしい思いをするかもしれない
もしくは自分の子どもが加害者になってしまった
という苦悩が苦悩が多く寄せられていました。
読んで感じたこと
偏見を持たれ、差別されることの生きづらさ
障がい者として生きていると、周囲から冷たい視線を送られたり
差別的な態度をされることがあります。
障がい者に対する良くないイメージが根付いているからです。
普通ではないもの・怖いもの
というイメージが根付いてます。
それが差別につながっていると考えられます。
何らかの障害を抱えた人が
大きな事件を引き起こしてしまうことは確かにあります。
自我をコントロールするのが難しい傾向にあり
本能に流されて実際に大きなトラブルを起こしてしまうということだと思います。
障がい者=加害者予備軍
といったようなイメージが強い傾向にあるのもわからなくないです。
理性で本能を抑えるのが困難な彼らを恐れ、排除したいという
思想が多少なりとも感じられます。
これらのことを踏まえると
現代社会は理性の上に成り立っていると言るのかなと思いました。
皆がみんな本能のまま動いていれば
ふつうに日本は崩壊します。
ですが、
ストレスを感じると快感に逃げようとしたり、
侮辱されたり差別されたら憤るのは普通のことですよね。
彼らはそれをうまくコントロールできていないという状況なのだと思います。
強いストレスを感じて心に深い傷を負うことがなければ
大きなトラブルを引き起こすこともないはずです。
過度な性的接触を求めたり問題行動を引き起こすこともなくなるでしょう。
これは障害の有無にかかわらず起こりうることです。
今の世の中の差別的な価値観が、
さらに知的障害や自閉症を持つ子どもたちから
自尊心を削り取り、偏見や差別によってストレスを与えています。
これが問題行動に走ってしまう青少年を生み出し続けていると思いました。
そして、これは障害だけに関わらず人種差別などの他の差別でも言えます。
特定の人種が差別され、それらによってストレスを被った一部の人が
トラブルを起こして
「やっぱり、あいつらは問題を起こすようなやつらだ」
と、さらに悪いイメージが浸透していくという
もはや最悪の状態ですよね。
負のスパイラルが止まりません。
で、別にこれは人種だけにとどまらず
学歴・容姿・年収・所属するコミュニティ・出身地などにも言えることなので
もはや世界から差別がなくならない限り争いは終わらねえ!
って思いました。
そもそも差別ってするものなのか、させられるものなのか
正直疑問に思いました。
どういうことかというと
例えば隣国の悪い噂をニュースで聞けば
「やっぱりあいつらは…」
となる人が多数派だと思います。
でも、別にそういったニュースを見なければ
そういった偏見や差別的な考え方が生まれないわけで。
つまりこれはメディアによって偏見を植え付けられて
差別させられている状態だと思うんですよね。
百聞は一見にしかずってことですかね。結局。
自分で見て、感じて、判断していくしかないんすかね。
みんな、何かしらの『障害』を抱えている
結婚や理想を叶えたいと思ったときに
障害を理由にそれらが実現困難とわかった時の
絶望感というのはとてつもなく大きいと思います。
障害のせいでやりたいことが成し遂げられないとなったら
生きている意味すらわからなくなると思います。
これらは知的障害や自閉症などだけじゃなくて
容姿が悪いから、芸能人になれない
年収が低いから、意中の人に振り向いてもらえない
などそういった何かを行う上でネックになるものも
自分の理想の妨げになる「しょうがい」となるときもあると思うんですね。
別に容姿が悪くても実力があれば芸能人になれますし、年収が低いからといって頼りがいがあって、 中身が素敵なら好きな人にもきっと振り向いてもらえるはずです。 まじで思うけど容姿ってあくまでパッケージだから。 中身の任天堂3DDSのほうが断然大事だからね。
またその傷が深くなれば自己肯定感が
大きく削り取られますし、コンプレックスとなって
人前に出るのも嫌になったりする人もいると思います。
醜形恐怖症といって、自分の外見の欠点や一部のパーツにとらわれて
日常生活に支障が出るほどの精神的苦痛を感じる病気があるのですが、
最悪の場合、そういった疾患にかかってしまうこともあります。
そして、それがボクです。
身長が166cmなのですが、
僕はいままではまったくそのことを気にしていませんでした。
ただ、ふとあるときネットでたまたま身長について調べた時に
身長が低い人への偏見、差別的ともいえるコンテンツが大量にあったんですね。
この時たくさんの悪意あるネガティブなコンテンツを吸収しすぎて
それ以降、自分の容姿に自信が持てなくなってしまいました。
顔は整っているか散らばっているかといえば
整っているほうだと思うのですが
それにはそこそこ自信があったのです。
身長が低いことでおこる様々なデメリットを浴びたせいで
その日にして身長がコンプレックスになってしまいました。
そして恐ろしいのが、
それが他人にも当てはまるところです。
自分自身が低身長なほうなのに
外で低身長の人を見ると
とてもプラスとはいえない感情が込み上げてきます。
そしてこの感情は抑えようとしても勢いよく
込み上げてきておさえることは困難です。
正直、生きるのが苦痛です。
ほんとに!(笑)
他人からしたら自分の雰囲気を感じ取って
不快な思いをしたらどうしようって思い不安になるときが
日常生活の中でたくさんあります。
たぶん醜形恐怖症と強迫性障害、対人恐怖症の
コンビネーションアタックなのかなと思いました。
きなこ、天馬、つるぎの
ファイアトルネードTCくらい強力です。
まあ、何が言いたいかというと、
日常生活でボクみたいに
一定のシチュエーションが怖いと感じたり
自身のアイデンティティのせいで
夢や理想が達成困難であるというのも
ひとつの「しょうがい」なのかなと思いました。
別に、全員が『障がい者』とくくりたいのではなくて
そういった妨げ、生きづらさとなるものが
誰でも少なからずあるのかなって思ったんです。
もちろん程度の大小はあると思うけど!
それに自分の良い部分に注目するのもすごい効果があると思います。
指が長くて綺麗とか、まつげが長いとか。
ユーモアがあるとか、サッカーが得意とか。
そういう自分が誇りを持てる部分に着目したほうが絶対楽しいです。
読み物として面白かった
とにかく思ったのは読み物として面白かった。
最初、目次を見たときね。
けっこう衝撃的な見出しが多すぎてさ。
悩み相談の見出しの一例をあげると
・母親の前でわざと自慰行為をします
・知的障害がある弟の性、どのように受け止めたらよいのですか?
など、刺激の強いものが多かったです。
正直、何も知らないで急に友人に言われたら
100%アダルト系のやつだろ、って断言したくなります。
ただね、わかってるんですよ。
これはね、真面目な話だって。
本当にそれで困ってるから相談するわけですよ。
それでも、やはりね。
「「エロいよね」」って思ってしまう自分が情けねえよ!
とりあえず、この話は置いといて。
肝心なのはその内容でして。
結論から言うと、めちゃくちゃ面白かった。
内容は確かに結構重めなんですよ。
重要なのは、その中にある人間の本能がダイレクトに表れてる描写です。
環境のストレスかなんらかの影響で青少年の理性のブレーキがかかりづらい状態にあり、
文面からストレートに欲求・本能というのが全身で伝わってくるというか。
「これが生きるってことなのか」と思わされました。
普段、怒り、性欲などの欲求が湧いてきてもそれを理性で押し殺している人が
多い中でここまでダイレクトに本能を感じられる場面というのはそうそうないと思いました。
みんな、欲求・本能というは根底にあるわけで、
青少年たちのストレートな行動を目撃すると
行動に問題はあるものの、激しい共感とともに同情がうまれると思います。
これはかなり衝撃的な感覚でした。
他人の本能が、自身の本能を刺激するということでしょうか。
そこに一種の面白さを感じました。
恐れているのは「であること」ではなく「思われること」
そして本書を読んで気づいたのが、
自分が最も恐れているのは
差別されるようなアイデンティティであることではなく、
「差別対象となるような人間であると思われること」なんだと思います。
例えば、コンプレックスっていうのは
見た目が醜いということ自体を恐れているのではなく、
見た目が醜いと思われたらどうしよう、と
思われることに恐怖を抱いていたのかなと気づかされました。
それで他者から承認されなくなったり軽蔑されるようになったら
辛いし苦しいからです。
なにか過去に過ちを犯してしまってそれがバレるかどうか
いつも不安でいっぱいな状態だったら、
もう常に爆弾を抱えながら生きている状態です。
こんな状態で人生は満喫できるのかと不安になると思います。
しかもSNSやインターネットの普及でその恐怖を何倍にも
膨れ上がっていると思います。
いくらでも情報を流せる時代ですからね。
実は自分自身、他人にはバレたくないことがたくさんあります。
ただ、そのうちの何個かは他人に知られているので
それがいつ誰に広まっていくかという恐怖で
不安でいっぱいな夜も多々ありました。
それも自分の対人恐怖症に大きく寄与したのかなと
思いました。
ただ、堂々とした態度・確固たる自信を身に着ければ
そういった爆弾もかすり傷ひとつつかない鋼のメンタルになってると思います。
ばらされたところで
「で?」
で流せるような男になりてえぜ!
と思う今日この頃。
結局「ないものねだり」
結局、他人が持ってる才能だったり経歴だったりっていうのは羨ましく思っちゃうもんです。
自分は今こんなに苦しんでいるのにあいつは今充実している…
とSNSを見て思うことも過去何度もありました。
あいつは学歴があって、顔も良くて、身長もあって、すごい功績も残してて、
高収入だし、それに比べて俺は…
といった感じで他人のすごいところを見せつけられると、
自分がだんだんとみじめに感じてしまうこともあります。
でもね。
他人があなたも知らないようなあなた自身のすごいところを
実は尊敬していたりする時もあります。
ボクが高校生のとき、仲の良い友人がいました。
当時からボクは対人恐怖症で新しく人間関係を作るのが難しい状況にありました。
でも、同じ部活で仲良くなった友人がいたんです。
その友人はイケメンで聞き上手でどうして自分なんかと
いつも一緒にいてくれるんだろう、と思ってました。
いつもいじられてばかりだったボクを
人間扱いしてくれたのは正直彼だけだったかなと思いました。
ボクの話を真摯に聞いてくれるのは高校・家族含めて彼だけだったかもしれません。
高校を卒業してから久しぶりに電話をしたくなったので
その友人に電話してみたんですね。
で、他愛もない話をしてたんですけど、その中で
『アンロックのそのアタオカなところ、結構尊敬してた。』
って友人から言われたんですね。
今はだいぶ普通の人間になってしまったらしいのだけれど。
で、これはふざけて友人が言ったとかじゃなくて
本物のリスペクトというか、そういったものが感じられたんです。
友人はけっこう静かめな野郎でした。
相手の話をひたすら聞いているような青年だったのですが、
まさか、アタオカ(=頭おかしい※ここではおそらく尊敬)なところが
他人からリスペクトされていたとは思ってもいなかったというか。
少し身の上話が長くなりましたが、
つまり、他人の表面的な良さだったり長所っていうのは認識しやすいけど
こと自分の長所となると自分自身じゃ認識しにくいんですよね。
他人の優れた点に目がいきがちだけど物事は一長一短で
良いところもあれば必ず悪いところもあるんです。
だから一概に容姿が良い、年収が高いことは絶対すばらしいものとはならないんですね。
容姿が良いから損をする場面もあれば、年収が高いから被る不幸もあるんですね。
それで結局一見恵まれた人たちもないものねだりをすることも全然あります。
とにかく自分で気づけないなら他人に気づいてもらえば良いので
色々な人と会って色んなとこに行って時間を過ごしていけば
いつか誰かがあなたの長所に気づいてくれるのかなと思いました。
現代において人権がないがしろにされすぎな件
日本国憲法第13条によれば
社会の制度に反しない限り、人々が幸福を追求する権利が保障されてるんですね。
つまり日本国民はみんな幸せになっていい権利を持ってるんです。
なのに、それにしては今の日本人のメンタルヘルスって最悪じゃないですか?
結局、弱肉強食というか。
立場が上のものが弱い立場の人間を虐げて搾取する構造ができあがっちゃてるんですよね。
『○○を持ってないと損する』、『△△できないとか終わってる』みたいな
上の立場の人間が必要とする資源を確保するために
下の立場の人間を脅すことで資源をかき集めようとするような構造ができちゃってると思うんですよ。
ここに疑問が浮かんで、
「ありのままの自分じゃ受け入れられない、幸せになれない」
っていう意味が少なからず含まれている文章だと思ったんです。
個人の幸せは国で保障されてるのに!
こんなことばっかやってたら日本人のメンタルヘルスが最悪になるのも当然じゃん!
ここで人権について語ってますが
「人権じんけんって、結局はきれいごとじゃないか」と一蹴する人が出てくるかもしれません。
確かにそうかもしれません。でも、
人権を語るときれいごとで片づけられてしまう状況って実はけっこうヤバい状況じゃね?
現代社会への問いかけ
「普通」という言葉が良く使われるますよね。
「普通にすごい」とか「普通でいい」とか「普通のやつ」とか
普通って便利な言葉ですよね。
で、思ったんですよ。
普通ってなんだよ!って。
ボクなりの答えがあるんですけど
普通っていうのは
万人受けする~、っていう意味なんじゃないかな。
「普通=誰が見ても・聞いても皆が納得する・受け入れられる~」
っていう意味なんじゃないかなって。
そういったニュアンスがあると思ったんだよね。
まあ、そんな話は置いといて。
現代を生きる人は「普通」を追い求めている人が多いと思うんだよね。
なぜならその方が万人受けするし、特定の誰かから拒絶されることもないから。
そういう意味では普通であることってこの現代で生きていくための適応手段であるともいえるよね。
それで皆がみんな普通を追い求めた結果、
同じようなやつで現代はあふれかえるようになりましたとさ。
それでも全く同じ人間なんていないんだけどさ。
普通を追い求めることが悪いかどうかでいったら悪いことではないかなって思う。
でも、変だとは思う。
一つのロールモデルみたいのがあってそれに向けてみんなが適応していくということでしょ。
多分ボクが社会人になるのを嫌だと思う理由はこれにあるんだと思う。
ビジネスマナーだったり社会人としての振る舞いだったりを身に着けなければならないし、
ありのままの自分じゃ受けれ入れてもらえないという違和感というか恐怖というか。
そういった感情が社会人になることへの不安につながっていると思うんだ。
ビジネスマナーがないと非常識なやつって思われるんだぜ?
知っていれば回避できるけどさ。
息苦しくないのかね。それって。
相手に不安感を与えないためのマナーなんだけどさ。
それでもやっぱり飲み込めないんだよなー。
おわりに
本の内容からかなり飛躍した感じになってしまいました。
ですが、この本を読まなければ気づけなかったことがたくさんありました。
生きづらさを抱えていきるということ、幸せになる権利が保障されていること
普通とは何であるかの疑問などいろいろ考えさせられるキッカケになりました。
内容自体は「知的障害や自閉症を抱える青少年の性教育に関する本」という感じですが、
それ以外にも多くの気づきを与えてくれる本でした。
ここまで読んでいただきありがというございました!
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